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  梅本商行の歴史
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   現在の丸釘、その当時の洋釘は何時どのような経路で日本に入ったのであろうか。明治5年、当時斯業(しぎょう)創業の三代目梅本利右衛門が神戸の商館を通じて初めて輸入し、国内に広めたことになっている。明治7年12月二代目死去に際し、香典受領の記録に「神戸10番・アーレス社、同46番・エストマン商会、同48番・モラカンブ商会、同56番・フレヴオ商会」と外国商館の名前が記されてあるので、その中の1社か4社全部から買ったらしいが明らかではない。
  しかし大阪で鏡屋を営んでいた三代目が、全くストレートに洋釘に着目したとはちょっと考え難い。先に洋鉄の釘地金の輸入を試みていたとしても、それにも何かのきっかけがあったのであろう。
  鉄鋼経済新報社昭和40年刊:「線材と製品」の市場回顧録によれば、「明治元年東京の今津屋平右衛門、湯浅七左衛門ら横浜商館にて釘地金を輸入す」となっている。このことと梅本の輸入とは何の関係もないが、それよりも以前に「何等かのかたちで素材としての釘地金が日本に入っていたのであろう。そのことを鋳造仲間が聞きつけて会合で話題にした。日頃鋳造の技術に関心を寄せていた三代目にとって耳よりな話で、そのまま聞き逃すはずがなかった」とでもしておこう。
  ほかに当社と期を同じくして、洋釘が東京の問屋に輸入されたという記録がないでもないが、それを裏付ける資料もなく、ましてその時代から現在まで釘を連綿として売り続けているのは当社の他にないので、当社が丸釘輸入の魁という栄誉を持たせて貰っているといってよかろう。
  輸入当時、丸釘は西洋の釘の意味から「洋釘」という単純明快な原初的訳語があり、当社の暖簾にも写真のように明治初期には、「洋釘商」としているが、地方によっては、往古より「釘」とは棟梁の裁量により必要最少重要箇所に打ち込む五寸以上のものであって、短いものは総じて鋲と称していた。そこで当時の大工はもちろん、世間一般にも新しくお目みえした洋釘のことを鋲をいった方が通りがよかったらしく、また従来の和釘の製法にも鑑み、暖簾には一応「洋釘商」としながらも、一般の広告宣伝では「御鋳造鋲所」としているのが面白い。
 
 
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   この写真は明治14年、大阪で開かれた内国勧業博覧会の後、北区曽根崎の垣貫興祐という人によって刊行された「大阪商工浪華の魁」所掲広告の復刻版をコピーしたものだが、前述の如く「御鋳造鋲所 梅本利右衛門」としているのに注目して欲しい。
  これは鋲(釘)を作っているということではなく、従来より鏡鋳造の伝統技術を持っているところから一種の洒落か遊びでこのように掲げたものらしい。
  参考までに住友左衛門が「鉱山業」、湯浅七左衛門(今のユアサ商事)が「大工道具打物卸商」、武田長兵衛(武田薬品)が「薬種問屋」、岩井文助(後の岩井産業、現日商岩井)が「舶来小間物商」などいずれも個人名で、しかも付き合い的に最小限の広告を載せているのが面白い。
     
 
       
       
 
 
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